よく言われている話ではあるが・・
ここ一週間忙しいのは、本の整理に追われているからである。
ある所に預けていた本を、引き取らなければならなくなった。
大きな本棚が4つに、本が段ボール箱に32個である。これを狭い家に入れなければならず、大事になったのである。
息子が、うちは図書館かと呆れるくらい、玄関もリビングも本だらけになってしまった。
本を整理していると、つい、中身が気になる。
1987年の本で、当時の新入社員について書いた本が、目に留まった。
エジプトのパピルスにも、「最近の若い者は・・・」という記述があるというが、何時の時代も、若者は批判の対象になる。
その本でも、当時の若者の特徴として、「おとなしくて消極的だ」と書かれている。
今から22年前であるから、当時の新人は今や、40代の課長クラスである。
この40代の課長のクラスに、今の新人のことを聞くと、同じように言うから不思議である。
「今の若い社員は、おとなしい、覇気がない。自分達が若い頃はもっと貪欲だった」、と。
今の若者たちがおとなしいということについては、一つの判断であって、そうかなとも思う。
しかし、自分達はそうではなかったということについては、どうも違和感がある。
50代の私からすると、今の40代の新人時代と、今の新人を比べた時、大きな違いは感じられない。また、自分自身が新人だった時と、今の新人を比べると、今の若い世代の方が優秀だと思うことの方が多い。
そもそも、毎年毎年、新人が上の世代よりも劣っているのであれば、すでにこの国は滅んでいるだろう。
などと考えながら、本の整理をしていると、片付くものも片付かない。
さらに、あまりの本の多さに、Amazonを通して本の販売を始めることにした。
この作業にも時間がかかってしまう。
ということで、ここしばらくは、ゆったりとした更新になってしまうことを、改めてお詫びしたい。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
ある所に預けていた本を、引き取らなければならなくなった。
大きな本棚が4つに、本が段ボール箱に32個である。これを狭い家に入れなければならず、大事になったのである。
息子が、うちは図書館かと呆れるくらい、玄関もリビングも本だらけになってしまった。
本を整理していると、つい、中身が気になる。
1987年の本で、当時の新入社員について書いた本が、目に留まった。
エジプトのパピルスにも、「最近の若い者は・・・」という記述があるというが、何時の時代も、若者は批判の対象になる。
その本でも、当時の若者の特徴として、「おとなしくて消極的だ」と書かれている。
今から22年前であるから、当時の新人は今や、40代の課長クラスである。
この40代の課長のクラスに、今の新人のことを聞くと、同じように言うから不思議である。
「今の若い社員は、おとなしい、覇気がない。自分達が若い頃はもっと貪欲だった」、と。
今の若者たちがおとなしいということについては、一つの判断であって、そうかなとも思う。
しかし、自分達はそうではなかったということについては、どうも違和感がある。
50代の私からすると、今の40代の新人時代と、今の新人を比べた時、大きな違いは感じられない。また、自分自身が新人だった時と、今の新人を比べると、今の若い世代の方が優秀だと思うことの方が多い。
そもそも、毎年毎年、新人が上の世代よりも劣っているのであれば、すでにこの国は滅んでいるだろう。
などと考えながら、本の整理をしていると、片付くものも片付かない。
さらに、あまりの本の多さに、Amazonを通して本の販売を始めることにした。
この作業にも時間がかかってしまう。
ということで、ここしばらくは、ゆったりとした更新になってしまうことを、改めてお詫びしたい。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
申し訳ありません
ここ数日バタバタしておりまして、ブログ活動が出来ない状況になっております。
後、2,3日で落ち着くと思います。
コメントへの返信を含め、ご迷惑をおかけしていることを、お詫び申し上げます。
後、2,3日で落ち着くと思います。
コメントへの返信を含め、ご迷惑をおかけしていることを、お詫び申し上げます。
上司の諌め方 晏子春秋 箚記
昨日遅く北海道から帰宅した。
流石に疲れて、今日はのんびりと過ごしていた。
まだ疲れているので、簡単な話をしたい。
上司が間違っていると思ったとき、どのように諌めるかは難しい課題である。正攻法だけでは、うまくいかないことが多いだろう。
斉の景公が大事にしていた馬を、世話係があやまって死なせてしまったことがあった。
怒った景公は、世話係に死を命じた。
それを聞いた晏嬰は、殺す前に、その罪を改めて明確に言い渡したいと、景公に願いでた。
景公は、許した。
そこで、晏嬰は、世話係に向かい、お前には大罪が三つあると言った。
その一つは、馬の世話係でありながら、馬を死なせてしまったこと、これが第一の罪である。
その二は、君の大切な馬を死なせてしまったこと、これが第二の罪である。
そして、こう言った。
使公以一馬之故而殺人「公をして、一馬のゆえを以て、人を殺さしむ」
つまり、景公に、たかが一匹の馬のせいで人を殺させる結果を引き起こしてしまったこと、これが第三の罪である、と。
そして、このことを、民や他国が知れば、景公の評判は地に落ち、侮られて、国難が生じるかもしれない。これほどの大罪は他にはない。死を以って償うのが当然であろう、と。
晏嬰の話を聞いていた景公は、さすがに反省し、私が間違っていたとして、馬の世話係の処刑を取りやめたという。
少し芝居がかってはいるが、うまいなぁと感嘆してしまう。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
流石に疲れて、今日はのんびりと過ごしていた。
まだ疲れているので、簡単な話をしたい。
上司が間違っていると思ったとき、どのように諌めるかは難しい課題である。正攻法だけでは、うまくいかないことが多いだろう。
斉の景公が大事にしていた馬を、世話係があやまって死なせてしまったことがあった。
怒った景公は、世話係に死を命じた。
それを聞いた晏嬰は、殺す前に、その罪を改めて明確に言い渡したいと、景公に願いでた。
景公は、許した。
そこで、晏嬰は、世話係に向かい、お前には大罪が三つあると言った。
その一つは、馬の世話係でありながら、馬を死なせてしまったこと、これが第一の罪である。
その二は、君の大切な馬を死なせてしまったこと、これが第二の罪である。
そして、こう言った。
使公以一馬之故而殺人「公をして、一馬のゆえを以て、人を殺さしむ」
つまり、景公に、たかが一匹の馬のせいで人を殺させる結果を引き起こしてしまったこと、これが第三の罪である、と。
そして、このことを、民や他国が知れば、景公の評判は地に落ち、侮られて、国難が生じるかもしれない。これほどの大罪は他にはない。死を以って償うのが当然であろう、と。
晏嬰の話を聞いていた景公は、さすがに反省し、私が間違っていたとして、馬の世話係の処刑を取りやめたという。
少し芝居がかってはいるが、うまいなぁと感嘆してしまう。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
史談と史論「秦の滅亡」
中国全土を支配した王朝は、始皇帝の秦が最初である。
最初の統一王朝であった影響は大きく、シナという言葉、Chinaという言葉は、秦からきている。
秦の前の戦国時代には、燕、斉、趙、魏、韓、楚という大国があったが、秦は、
紀元前230年:韓
紀元前228年:趙
紀元前225年:魏
紀元前223年:楚
紀元前222年:燕
紀元前221年:斉
と、瞬く間に、六国を亡ぼした。
同時期、ヨーロッパでは、ローマとカルタゴが地中海の覇権を争うポエニ戦争をやっていた頃である。
前221年に斉を亡ぼして全国を統一すると、秦王は、始皇帝として即位した。ところが、わずか十五年、前206年には、劉邦や項羽によって秦は滅亡してしまう。
絶頂期から衰亡までの期間が、これほど短い帝国は他にはないであろう。
その理由としてよく言われているのが、皇帝一人に権力が集中していたということである。
秦は、法治国家であったが、皇帝だけは法を超越していた。そして、全てを皇帝が決裁する体制であった。
『史記』によると、
天下之事無小大、皆決於上(天下のこと、小大なく、みな上に決す)
「どんなことでも、全て、上(しょう、始皇帝のこと)が決定した」、とされている。
当然、始皇帝の忙しさは半端ではなく、
上至以衡石量書。日夜有呈。不中呈、不得休息(上、衡石をもって書をはかる。日夜、呈あり、呈にあたらざれば、休息をえず)
「決裁すべき書類ははかりで重さをはかり、一日に処理する重さを決めていた。そして、その決めた重さに至らなければ、休まなかった」、という。
始皇帝は、実に勤勉に仕事をしたのである。
しかし、『史記』を書いた司馬遷は秦を亡ぼした漢の官僚であるから、始皇帝のことを褒めることはない。
貪於権勢至如此(権勢をむさぼること、かくの如くに至る)
と、酷いことを言っている。
何はともあれ、皇帝が優秀でなければ物事が処理されない、それが秦という帝国であった。
ところが、始皇帝の死後、即位したのは、暗愚とされた胡亥(こがい)であった。
これは、宦官の趙高や宰相の李斯(りし)の陰謀による。
始皇帝の遺勅を改竄し、優秀とされていた長子の扶蘇(ふそ)を死に追いやったのである。
暗愚な胡亥が二世皇帝となったため、秦は圧政を行い、民は苦しみ、結局、滅亡したとされている。
しかし、先ほどの司馬遷の始皇帝に対する評価をみれば分かるように、歴史は、亡んだ王朝の次の王朝が作成する。
そして、前王朝の最後の君主は、絶対に悪く書かれるのである。そうでなければ、討滅した大義名分が立たないからである。
実際に『史記』を読んでも、それほど胡亥が暗愚だとは、私には思えない。
問題は、胡亥を擁立した首謀者である趙高である。
擁立による功績によって、趙高は、秦帝国の実権を握った。
ということは、胡亥によってなされたとされている圧政は、実際は、趙高の手によってなされたということである。
趙高は、決して馬鹿ではない。始皇帝の寵臣であり、宦官でありながら学問に優れ、胡亥に、書及び獄律令法を教えたとされている。
ところが、実権を握ってからは滅茶苦茶であった。
最も人口に膾炙しているのが、「馬鹿」の話であろう。
胡亥に鹿を見せ、「馬です」、と趙高が述べた。
胡亥が、「鹿を馬とは、間違っている」として、左右に問うと、左右は趙高を畏れて、ある者は黙し、ある者は「馬です」と言って、趙高におもねったとされている。
この逸話は、胡亥の暗愚さを語っているのではなく、趙高の権勢がいかに大きかったかを示している。
要するに、この時期、秦帝国の実質的な皇帝は、趙高であった。
にもかかわらず、帝国を弱体化させるようなことばかりをしたのは、何故かということである。
『史記』の蒙恬列伝に、趙高は、その名が示す通り、趙の王家の遠縁であると、書かれている。
趙は、冒頭に書いた紀元前228年に、秦によって滅ぼされた趙のことである。
そして、前260年には、長平の戦いにおいて、40万人を超える兵を、これまた秦によって生き埋めにされ殺されている。
年齢的に考えると、趙高の父親も、この戦いで生き埋めにされた可能性は充分にある。ということは、趙高は、秦に対する復讐を行なったのではないか、という解釈は充分に可能であろう。
ここまで書いてネットで調べてみると、やはり世間は広くて、私と同じような意見は、今までにもあるようである。
もちろん、通説にはなっていない。
しかし、確かめようのないことではあるが、趙高が、自分の一族と国のために復讐を果たしたと考えなければ、秦帝国の成立とそのあまりにも早い滅亡を解釈することは出来ないと、私は考えている。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓
最初の統一王朝であった影響は大きく、シナという言葉、Chinaという言葉は、秦からきている。
秦の前の戦国時代には、燕、斉、趙、魏、韓、楚という大国があったが、秦は、
紀元前230年:韓
紀元前228年:趙
紀元前225年:魏
紀元前223年:楚
紀元前222年:燕
紀元前221年:斉
と、瞬く間に、六国を亡ぼした。
同時期、ヨーロッパでは、ローマとカルタゴが地中海の覇権を争うポエニ戦争をやっていた頃である。
前221年に斉を亡ぼして全国を統一すると、秦王は、始皇帝として即位した。ところが、わずか十五年、前206年には、劉邦や項羽によって秦は滅亡してしまう。
絶頂期から衰亡までの期間が、これほど短い帝国は他にはないであろう。
その理由としてよく言われているのが、皇帝一人に権力が集中していたということである。
秦は、法治国家であったが、皇帝だけは法を超越していた。そして、全てを皇帝が決裁する体制であった。
『史記』によると、
天下之事無小大、皆決於上(天下のこと、小大なく、みな上に決す)
「どんなことでも、全て、上(しょう、始皇帝のこと)が決定した」、とされている。
当然、始皇帝の忙しさは半端ではなく、
上至以衡石量書。日夜有呈。不中呈、不得休息(上、衡石をもって書をはかる。日夜、呈あり、呈にあたらざれば、休息をえず)
「決裁すべき書類ははかりで重さをはかり、一日に処理する重さを決めていた。そして、その決めた重さに至らなければ、休まなかった」、という。
始皇帝は、実に勤勉に仕事をしたのである。
しかし、『史記』を書いた司馬遷は秦を亡ぼした漢の官僚であるから、始皇帝のことを褒めることはない。
貪於権勢至如此(権勢をむさぼること、かくの如くに至る)
と、酷いことを言っている。
何はともあれ、皇帝が優秀でなければ物事が処理されない、それが秦という帝国であった。
ところが、始皇帝の死後、即位したのは、暗愚とされた胡亥(こがい)であった。
これは、宦官の趙高や宰相の李斯(りし)の陰謀による。
始皇帝の遺勅を改竄し、優秀とされていた長子の扶蘇(ふそ)を死に追いやったのである。
暗愚な胡亥が二世皇帝となったため、秦は圧政を行い、民は苦しみ、結局、滅亡したとされている。
しかし、先ほどの司馬遷の始皇帝に対する評価をみれば分かるように、歴史は、亡んだ王朝の次の王朝が作成する。
そして、前王朝の最後の君主は、絶対に悪く書かれるのである。そうでなければ、討滅した大義名分が立たないからである。
実際に『史記』を読んでも、それほど胡亥が暗愚だとは、私には思えない。
問題は、胡亥を擁立した首謀者である趙高である。
擁立による功績によって、趙高は、秦帝国の実権を握った。
ということは、胡亥によってなされたとされている圧政は、実際は、趙高の手によってなされたということである。
趙高は、決して馬鹿ではない。始皇帝の寵臣であり、宦官でありながら学問に優れ、胡亥に、書及び獄律令法を教えたとされている。
ところが、実権を握ってからは滅茶苦茶であった。
最も人口に膾炙しているのが、「馬鹿」の話であろう。
胡亥に鹿を見せ、「馬です」、と趙高が述べた。
胡亥が、「鹿を馬とは、間違っている」として、左右に問うと、左右は趙高を畏れて、ある者は黙し、ある者は「馬です」と言って、趙高におもねったとされている。
この逸話は、胡亥の暗愚さを語っているのではなく、趙高の権勢がいかに大きかったかを示している。
要するに、この時期、秦帝国の実質的な皇帝は、趙高であった。
にもかかわらず、帝国を弱体化させるようなことばかりをしたのは、何故かということである。
『史記』の蒙恬列伝に、趙高は、その名が示す通り、趙の王家の遠縁であると、書かれている。
趙は、冒頭に書いた紀元前228年に、秦によって滅ぼされた趙のことである。
そして、前260年には、長平の戦いにおいて、40万人を超える兵を、これまた秦によって生き埋めにされ殺されている。
年齢的に考えると、趙高の父親も、この戦いで生き埋めにされた可能性は充分にある。ということは、趙高は、秦に対する復讐を行なったのではないか、という解釈は充分に可能であろう。
ここまで書いてネットで調べてみると、やはり世間は広くて、私と同じような意見は、今までにもあるようである。
もちろん、通説にはなっていない。
しかし、確かめようのないことではあるが、趙高が、自分の一族と国のために復讐を果たしたと考えなければ、秦帝国の成立とそのあまりにも早い滅亡を解釈することは出来ないと、私は考えている。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓
「スタンドプレー」 孔子家語 箚記
余分な話ではあるが、今日から札幌に来ている。空は曇っており、さすがに寒い。
明日から二日間、ここで仕事をする。
札幌は美しい街であり、私の大好きな街の一つでもある。
たかだか、百数十年前、明治の頃には、ここが荒漠たる原野であったということが信じられない。
重機が無い時代である。
人々は、寒さと餓えに煩苦しながら、切り開いていったのであろう。
そういった過去の人たちの苦労から連想した話を紹介したい。
昨日の記事と似ているが、少し観点は違っている。
登場人物は、孔子、子路、子貢と同じである。
子路が、衛の国の蒲(ほ)というところの長官になった。
暴雨に備えて、民と水路の修理を行なおうとしたが、民が貧しく疲れているのを見て、食料を配給することにした。
配給した食糧は、自前である。つまり、子路は身銭を切ったのである。
このことを聞いた孔子は、早速、子貢を使いにやり、やめるように指示した。
子路は、忿然(ふんぜん)として喜ばなかった。
孔子の許へ行き、抗議した。
民の煩苦を見て、それを救おうとするのは、「仁」である。これをやめさせようとするのは、「仁」を行なうなということではないか、と。
そして、
夫子以仁教、而禁其行、由不受也(観思)
「夫子、仁を以って教えて、その行いを禁ず、由は受けざるなり」
先生は、仁が大事だと教えながら、由(子路のこと)が仁を行なおうとすると、それを禁じるのですか。私はそのようなことには従いません、ということである。
話は違うが、このように面と向かって孔子に歯向かっていく所が、子路の魅力であり、また、孔子も、子路の、こういった率直な性格を愛した。
残念なことに、子路は、この後、衛の国の政争に巻き込まれ、自身の美学を貫き通して殺されてしまう。
話を戻すと、孔子は、こう言って、子路をたしなめた。
「何故、君主にお願いして、国の食料庫を開けて貰わないのだ」、と。
そして、
私以爾食饋之、是汝明君之無惠、而見己之徳美
「私(ひそ)かに爾(なんぢ)の食(し)を以て之に饋(おく)るは、是、汝、君の惠み無きを明らかにして、己の徳の美を見(あらは)すなり」、と言った。
つまり、自分の身銭を切って民を救おうということは、君主が恵深くないことを世間に示し、自分が立派だと触れ回るようなものだ、ということである。
これは、自分可愛さのスタンドプレーであり、臣下としての道ではないというのが、孔子の考え方である。
確かに、そう言われれば、その通りである。
善を為すこと、仁を為すこと、なかなか簡単ではない。
しかし、煩苦する民からすれば、理屈はどうでもいいから、助けてさえくれればいい、ということになる。
孔子の発想は、民の側からというよりも、やはり、支配者側である。
ここに、儒教のある種の限界があると言ったら、言い過ぎであろうか。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
明日から二日間、ここで仕事をする。
札幌は美しい街であり、私の大好きな街の一つでもある。
たかだか、百数十年前、明治の頃には、ここが荒漠たる原野であったということが信じられない。
重機が無い時代である。
人々は、寒さと餓えに煩苦しながら、切り開いていったのであろう。
そういった過去の人たちの苦労から連想した話を紹介したい。
昨日の記事と似ているが、少し観点は違っている。
登場人物は、孔子、子路、子貢と同じである。
子路が、衛の国の蒲(ほ)というところの長官になった。
暴雨に備えて、民と水路の修理を行なおうとしたが、民が貧しく疲れているのを見て、食料を配給することにした。
配給した食糧は、自前である。つまり、子路は身銭を切ったのである。
このことを聞いた孔子は、早速、子貢を使いにやり、やめるように指示した。
子路は、忿然(ふんぜん)として喜ばなかった。
孔子の許へ行き、抗議した。
民の煩苦を見て、それを救おうとするのは、「仁」である。これをやめさせようとするのは、「仁」を行なうなということではないか、と。
そして、
夫子以仁教、而禁其行、由不受也(観思)
「夫子、仁を以って教えて、その行いを禁ず、由は受けざるなり」
先生は、仁が大事だと教えながら、由(子路のこと)が仁を行なおうとすると、それを禁じるのですか。私はそのようなことには従いません、ということである。
話は違うが、このように面と向かって孔子に歯向かっていく所が、子路の魅力であり、また、孔子も、子路の、こういった率直な性格を愛した。
残念なことに、子路は、この後、衛の国の政争に巻き込まれ、自身の美学を貫き通して殺されてしまう。
話を戻すと、孔子は、こう言って、子路をたしなめた。
「何故、君主にお願いして、国の食料庫を開けて貰わないのだ」、と。
そして、
私以爾食饋之、是汝明君之無惠、而見己之徳美
「私(ひそ)かに爾(なんぢ)の食(し)を以て之に饋(おく)るは、是、汝、君の惠み無きを明らかにして、己の徳の美を見(あらは)すなり」、と言った。
つまり、自分の身銭を切って民を救おうということは、君主が恵深くないことを世間に示し、自分が立派だと触れ回るようなものだ、ということである。
これは、自分可愛さのスタンドプレーであり、臣下としての道ではないというのが、孔子の考え方である。
確かに、そう言われれば、その通りである。
善を為すこと、仁を為すこと、なかなか簡単ではない。
しかし、煩苦する民からすれば、理屈はどうでもいいから、助けてさえくれればいい、ということになる。
孔子の発想は、民の側からというよりも、やはり、支配者側である。
ここに、儒教のある種の限界があると言ったら、言い過ぎであろうか。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
「独りよがりの美徳」 淮南子(えなんじ)箚記
会社の業績が不調の時など、経費を会社に請求しない人がいる。
部課長クラスにもいるし、中小零細の経営者には、かなり多いのではないか。
実は、私も、そういう一人であった。
しかし、ある時、それは間違った行動だと諌められたことがある。
間違っている理由は、二つある。
一つは、経費を会社に請求することが美しくない行動とされ、請求しづらい雰囲気が出来上がってしまう。
そうすると、本来、使った方が効果的な経費さえ、社員が使わなくなる、ということ。
もう一つは、公私混同に繋がるということである。
身銭を切っていると、会社の金と、自分の金の境が無くなってくる。いつも、会社の経費を立て替えているのだから、私用の金を会社に立て替えて貰ってもいいだろうという考え方が出てくる、ということであった。
孔子の弟子で、勇猛で聞こえた子路が、ある時、溺れた人間を救った。
立派な行為だということで、多大な褒美が出て、子路はありがたく受け取った。
孔子は、これを聞いて、
魯国必好救人於患(斉俗訓)
「魯国、必ず好んで人を患いより救はん」
魯の国では、今後、みんなが進んで人を難儀から救おうとするだろう、と述べた。
孔子の弟子で、裕福で聞こえた子貢が、他国で奴隷になっていた魯の国人を、身銭を切って助けた。
早速、褒美が出たが、子貢は受け取らなかった。
孔子は、これを聞いて、
魯国不復贖人矣
「魯国、復(ま)た人を贖(あがな)わじ」
魯の国では、今後、他国で奴隷になっている国人を自分の金で救おうとはしないだろう、ということである。
そして、
子路受而勧徳、子貢譲而止善
「子路は、受けて徳を勧め、子貢は譲りて善を止む」
子路は、褒美を受け取ることによって徳を勧めたが、子貢は、褒美を辞退することによって、善を止めてしまった、とも述べた。
『孔子家語』では、孔子は子貢に、こう言っている。
「お前は間違っている。聖人は、自分の行いで民を教え導くものだ。自分自身の行いだけを立派にすれば良いというものではない。今、魯の国は貧しい人が多い。奴隷となった国人を金で贖って、その金を受け取ることが清廉でないということになれば、誰が人を助けようとするだろうか」
会社の経費を、身銭で処理しようとすることは、確かに格好良いことではあるが、独りよがりの美徳なのかもしれない。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
部課長クラスにもいるし、中小零細の経営者には、かなり多いのではないか。
実は、私も、そういう一人であった。
しかし、ある時、それは間違った行動だと諌められたことがある。
間違っている理由は、二つある。
一つは、経費を会社に請求することが美しくない行動とされ、請求しづらい雰囲気が出来上がってしまう。
そうすると、本来、使った方が効果的な経費さえ、社員が使わなくなる、ということ。
もう一つは、公私混同に繋がるということである。
身銭を切っていると、会社の金と、自分の金の境が無くなってくる。いつも、会社の経費を立て替えているのだから、私用の金を会社に立て替えて貰ってもいいだろうという考え方が出てくる、ということであった。
孔子の弟子で、勇猛で聞こえた子路が、ある時、溺れた人間を救った。
立派な行為だということで、多大な褒美が出て、子路はありがたく受け取った。
孔子は、これを聞いて、
魯国必好救人於患(斉俗訓)
「魯国、必ず好んで人を患いより救はん」
魯の国では、今後、みんなが進んで人を難儀から救おうとするだろう、と述べた。
孔子の弟子で、裕福で聞こえた子貢が、他国で奴隷になっていた魯の国人を、身銭を切って助けた。
早速、褒美が出たが、子貢は受け取らなかった。
孔子は、これを聞いて、
魯国不復贖人矣
「魯国、復(ま)た人を贖(あがな)わじ」
魯の国では、今後、他国で奴隷になっている国人を自分の金で救おうとはしないだろう、ということである。
そして、
子路受而勧徳、子貢譲而止善
「子路は、受けて徳を勧め、子貢は譲りて善を止む」
子路は、褒美を受け取ることによって徳を勧めたが、子貢は、褒美を辞退することによって、善を止めてしまった、とも述べた。
『孔子家語』では、孔子は子貢に、こう言っている。
「お前は間違っている。聖人は、自分の行いで民を教え導くものだ。自分自身の行いだけを立派にすれば良いというものではない。今、魯の国は貧しい人が多い。奴隷となった国人を金で贖って、その金を受け取ることが清廉でないということになれば、誰が人を助けようとするだろうか」
会社の経費を、身銭で処理しようとすることは、確かに格好良いことではあるが、独りよがりの美徳なのかもしれない。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
大事なことは失われた能力ではなく持っている能力である。 戦国策 箚記
どんな人間にも、人と比べて優れた部分がある。
いわゆる成功するかどうかは、その優れた部分で勝負するかどうかで決まるのであろう。
どんな人間にも、人と比べて劣っている部分がある。
失敗するのは、優れた部分ではなく、劣っている部分で勝負してしまうからであろう。
違う表現をすれば、自分自身の仕事ややりたいことと、自分の優れた能力が一致した時、人は偉業をなすことができる。
王斗という人が、斉の宣王に、「王は、覇者であった桓公に比べて、5つの内、4つが備わっている」、と述べた。
先君好馬、王亦好馬。先君好狗、王亦好狗。先君好酒、王亦好酒。先君好色、王亦好色。先君好士、而王不好士(齊策)
「先君、馬を好み、王もまた馬を好む。先君、犬を好み、王もまた犬を好む。先君、酒を好み、王もまた酒を好む。先君、色を好み、王もまた色を好む。先君、士を好む、しかし、王は士を好まず」
桓公は、王斗の言うとおり、酒が好きで女が好きで贅沢が好きで、この部分だけをとれば、欠点だらけの人間であった。
グルメでもあり、易牙という料理人によって、人肉まで食したとされている。
しかし、一点だけ素晴らしい能力というか、性質を持っていた。
それが、「士を好む」ということである。
有能な人材を愛し、人材を信頼することが出来た。
これは、君主という仕事、リーダーという仕事をする上で、優れた資質であり、そのお陰で、春秋五覇の筆頭になれた訳である。
欠点に目を向けても、仕方がない。
大事なことは、自分自身、何に優れているかということである。
この仕事は儲かるとか、ステイタスが高いとか、流行るとか、社会に役立つとかで仕事を選んでも、多分、成功はしない。
自分の能力を活かせることは何かという観点が、最も大事な筈である。
適材適所は、自分自身でも考える必要があるだろう。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓
いわゆる成功するかどうかは、その優れた部分で勝負するかどうかで決まるのであろう。
どんな人間にも、人と比べて劣っている部分がある。
失敗するのは、優れた部分ではなく、劣っている部分で勝負してしまうからであろう。
違う表現をすれば、自分自身の仕事ややりたいことと、自分の優れた能力が一致した時、人は偉業をなすことができる。
王斗という人が、斉の宣王に、「王は、覇者であった桓公に比べて、5つの内、4つが備わっている」、と述べた。
先君好馬、王亦好馬。先君好狗、王亦好狗。先君好酒、王亦好酒。先君好色、王亦好色。先君好士、而王不好士(齊策)
「先君、馬を好み、王もまた馬を好む。先君、犬を好み、王もまた犬を好む。先君、酒を好み、王もまた酒を好む。先君、色を好み、王もまた色を好む。先君、士を好む、しかし、王は士を好まず」
桓公は、王斗の言うとおり、酒が好きで女が好きで贅沢が好きで、この部分だけをとれば、欠点だらけの人間であった。
グルメでもあり、易牙という料理人によって、人肉まで食したとされている。
しかし、一点だけ素晴らしい能力というか、性質を持っていた。
それが、「士を好む」ということである。
有能な人材を愛し、人材を信頼することが出来た。
これは、君主という仕事、リーダーという仕事をする上で、優れた資質であり、そのお陰で、春秋五覇の筆頭になれた訳である。
欠点に目を向けても、仕方がない。
大事なことは、自分自身、何に優れているかということである。
この仕事は儲かるとか、ステイタスが高いとか、流行るとか、社会に役立つとかで仕事を選んでも、多分、成功はしない。
自分の能力を活かせることは何かという観点が、最も大事な筈である。
適材適所は、自分自身でも考える必要があるだろう。
クリック頂ければ、より多くの方に読んで頂けます。宜しくお願いします。
↓ ↓ ↓ ↓





